伊賀丸柱を訪ねて

三重県上野城のある上野の町は、大阪と京都へわかれる路と、東海道との分岐点でもある伊賀街道のなごりが、まだまだ町並みに残ります。お醤油、玉みそ、履物やに麹やなど今も商家として健在です。
伊賀モノといえば、忍者・・・ということで、この時はちょうど街中が忍者フェスの装い!
皆さん忍者の格好でお出迎えでした。

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伊賀焼の中心である丸柱は、市内から北に15キロ程。
三田の山や峠と地元の方が呼ぶような、山道を一気にあがったその奥です。とても外からは町があるようには思えません。かつては、この山道を下り(さらに登り?)釜飯用の釜を木曽の方まで売りにいったそうです。
今は、京都や奈良が近いこともあり、業者さんも入ってきているようです。
丸柱から、伊賀焼の窯元さんは周囲の地区に広がっていらっしゃいます。
おそらく伊賀焼はいくつもの土や粘土を混ぜるため、適した土はかなり広い範囲で採れるためかと思われます。
また伊賀焼の古陶は、背中合わせの滋賀県信楽焼と区別がないもので、同じ土を使って一帯でつくっていたものです。

ちょうど水田の田植えの準備の時分でした。
峠を上がりきると、かなりなだらかな風景が広がります。
茶陶として今も愛される伊賀焼ですが、同時に土瓶や土鍋、行平などといった火に直接かけて使用できるものを、多くつくってきました。伊賀の土は、直火で使用するものに適しているのでしょう。
家庭にガスが入りアルミやステンレスのなどの金属製の鍋などが広まる前のことです。この流れは、もちろん伊賀だけのことではありません。

今これからどんなものが、残ってゆくのか・・・いろいろと難しい面を考えるとキリがありません。
お茶事の中で使われていくもの、旅館や飲食店などで使われるもの、鑑賞用の作品として、伝統工芸として、民芸として、家庭用のうつわとしての切り口。それから業務用の管や水回りの製品、建材もあります。
裏を返せば、焼きものはこれだけの幅があるということでもあります。

波佐見焼の窯元さんのお話で、流行の影で偏りすぎることなく、(時代や流行が)どう転んでもいいように技術だけは、細々とでも残しておかないと、、、残しておけば次の波が来た時もなんとか対応できるからね。とおっしゃっていたのを思い出します。
また、技術は人の中に眠るものなので人が続いていくこと大切さ、あとは土さえあれば!
焼きものの産地をいくつか廻っただけですが、生意気なりにも思うことがあって、窯元さんの言葉は本当にそうだなあと感じているところです。

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→ 標 しもと 

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