益子焼でフタつきの瓶など古くから使われてきた褐色の釉薬といえば、柿釉です。
柿赤釉とも呼ばれるそうです。
益子からほど近い芦沼地方から産出される、芦沼石のみを砕いてつくられる釉薬です。
火山灰がふりつもって出来あがった石で、鉄分を多く含んでいるのだそうです。
登り窯で焼かれますとなおのこと、地の土の成分とも関係するのか、複雑な色みがでてくる気がします。
金属性の光を帯びた色が、所々にみえます。
益子焼 石皿
ショップでも紹介しております、益子焼の石皿は・・・
存在感があり、どっしりとした安定感が魅力です。
こんなにシンプルなのに使って飽きのこないものです。
’玉フチ’といわれる丸みのあるフチも、その理由の一つかもしれません。
古いものですと江戸時代から使われはじめたであろう石皿は、瀬戸のものが大変良く知られていますが、益子や会津本郷などでも焼かれていました。各産地の石皿を比べてみるのも楽しいですが、どこのか分からない場合も多いですね・・・
瀬戸の土 つづき
瀬戸では、登り窯で焼くことを昭和40年代末に終えられたとのこと。
残念なことではありますが、こちらで使用していた登り窯を見せて頂くと三口の奥が四口だったかな?、たいへん大きなものです。かつて生活用品から瓶や鉢などの台所用品にいたるまで陶製だった頃は、大きなものが大量に造られていたので必然的に大きな窯が必要でしたが、食器等の小物が多い現在は、それだけの量を一度に焼くことが難しいそうです。
窯元さん共同で、復活できないかな・・・
その後の歴史がすでに40年近くあるわけで・・・使われていた陶板などを使い美しい外壁が町のあちこちに見えました。
何度も焼かれたモノなので、色にも深みがあり独特の雰囲気。
何度も焼くと強くなったりするのでしょうか??今度聞いてみたいです。
この方法はかなり古くから行なわれていたそうで、素敵な再利用ですね。
私は食器を主にさがしにいくわけですが、瀬戸の産地としての産業は、もちろんそれだけではありません。
タイルやトイレなどの水回り、かつては水道管、陶製のお人形や置物・・・
高度成長期の都市や住宅をどれだけか支えてきたことでしょう。
食器はその中の一部ですね。
それぞれに適した土があるのでしょうか。
これだけ多岐にわたって製品を供給してこれたのは、使いやすい土の特性があるのかもしれませんね。
瀬戸の土
瀬戸は、誰もが知るやきものの大産地です。
地元の方に尋ねますと、良質の土が掘ればどこからでもでるような恵まれた土地だそうで、どれだけのモノが世にでたか気が遠くなるほどなのに、土がなくなる心配は今の所なさそうです。
豊富なので、近隣のやきものの産地に出している程だそうです。
ある産地では土地の所有者の問題もあり、元々土が浅い層にしか出ないこともあって、すでに蓄えたもので終了とのこと。
それを他の地の土を混ぜるなどして少しずつ期間を延ばしていき、30年くらい持つかなあ、というお話でした。
その後どうするのか・・・といった話しはとても聞けませんでしたが、各自が欲しい土を手にすることができる今、大きな問題ではないのかもしれません。
かつては窯元さん各自で、やきものに使う土が掘れるような山を持っていたとか。
こういったことは、今は各自治体や窯業組合などが、管理していることでしょう。
とはいえ、どの産地もそれぞれの窯元さんで相当な研究と工夫をされているのは、もちろんのことです。
おなじ地元の土であっても同じものができるわけではありません。
また、必要に応じて自ら裏山の土を混ぜてみたり・・・
産地のやきもの、とはどういったことなのか・・・いろいろと知る機会がふえました。
瀬戸へ
笠間稲荷神社
笠間稲荷神社の参道には、神棚をはじめ神具がたくさん売られています。
神社から古陶が中心の美術館へ抜ける裏手には、参道で売られていた陶製のキツネ様が大小無数お供えされていました。
なんとなく山になっている様子は、きちんと並んでいるより怖いですね。
迫力がありました。
笠間焼
益子焼の釉薬
益子焼の伝統的な釉薬を紹介しておりました。
灰、糠白、飴、柿赤、並白、糠青磁、黒が主だったもののようです。
かめや鉢、火鉢に大徳利。
写真にはありませんが、古いもので他の産地でも糠白にきれいな薄緑の組あわせをよくみかけるなあと思っていたら、糠白に酸化銅を混ぜたものが、あの鮮やかな緑色になるとは・・・組合わせとしてつくりやすいので、多いとのことです。
勉強になりました。
小鹿田焼の生まれるところ
日田市
小鹿田や小石原の里の中継地ともいえる日田市は、鵜飼を行なう水のきれいな川に恵まれた所です。
市内に水路が巡っており涼しげですが、盆地のため暑さはなかなかのものです!
どちらの里も山あいにあるため、かなり涼しくなります。
かつて、小鹿田焼は日田市まで馬にのせ行商にきており、日田を経由して地域に広がっていったため”日田もの”と呼ばれていたそうです。
登り窯は山の傾斜を利用することが多く、材料や燃料となる木材などの調達を考えますと、山間部でやきものがつくられるのがかつては自然なことだったのだな、とあらためて思います。
今はやきものづくりもいろいろと便利で、場所を選ばなくなってきているのですね。
関係ないですが、いい表現の表記を見つけました!